特集2 〜六甲デイケアセンターの野橋順子さん、山本健隆さんにインタビュー〜
阪神大震災を経験した障害者の立場から 前号に「地震が来たらどうするか」というテーマで、大阪大学工学部助教授の吉村英祐さんの論文を掲載しました。今回はよりそのテーマを深める意味で、実際に阪神大震災を体験した障害当事者の野橋順子さんと山本健隆さんにお話を伺いました。お二人は神戸市東灘区の肢体障害者作業所「六甲デイケアセンター」の当事者スタッフで、震災時は早川福祉会館に避難されていました。5月13日にセンターへ取材に行きました。
――地震の際、どんな体験をされましたか?
野橋 1995年1月17日、午前5時46分。当時私は須磨にある市営住宅の1階に母と暮らしていました。母は夜10時から朝6時まで弁当工場に勤めていて不在だったのですが、たまたま祖母と兄が泊まりに来ていました。すごい地震で、部屋で寝ていた私の上に本棚の本がいくつも落ちてきて、テレビが私をかすめて落ちました。とても一人では部屋から出られない状態でした。兄がドアをこじ開けて、抱えて出してくれました。祖母や兄が家にいたのは、本当にラッキーでした。
とりあえず車に避難しました。家が半壊でぐしゃぐしゃでした。一番困ったのはトイレでした。祖母の家に私用(わたしよう)のポータブルトイレがあり、それを取りに車で行きました。
周りは何が起こったかわからない状態でした。ガソリンスタンドは火を吹いていました。地面も大きく割れていて、交通渋滞もひどかったです。電話も通じませんでした。何とか祖母宅に辿り着き、ポータブルトイレを使って、祖母にタオルで隠してもらって、ガレージで用を足しました。
その日のうちに西宮の郊外にある母の姉の家へ避難しました。かなり田舎で、地震による被害はなく、水道もガスも普通に通っていました。早川に避難するまで、そこに1週間程いました。
今まで電動車椅子で一人で外出できていたのに、道路の状態も悪く、電動車椅子を家から運ぶのも困難。やむなく手動車椅子に乗りましたが、介助者がいない。昔、障害者が街に出ることの少なかった時代の自分を思い出しました。毎日が精神的に辛かったです。刑務所暮らしのようでした。家族や親戚の介助は、気を遣います。あたりがきついんですよ。我慢しなさいとかね。
1月27日に早川福祉会館に避難すると、すでにセンターの仲間の沢田さんや福永さんが。みんなで泣きました。
私が外に出始めたのは、高校2年の時参加した交流キャンプで、センターの元所長の福永さんと出会い「レクに来ないか」「介助もつけるよ」と誘われたのがきっかけ。家では母の介助を受けるばかり。外に出ると危ないからと、ほとんど家にいた「箱入り娘」でした。電車の乗り方も知らなかったんですよ。今年29歳になります。地震の時は19歳でした。
山本 地震の時は家にいました。神戸市深江の市営住宅の10階に母と二人で暮らしていました。急に家が揺れだして、電気のカサが落ち、CDのケースが全部倒れてきました。テレビも倒れ、ベランダのガラスも割れました。何が起きたか真っ暗で全然わかりませんでした。ラジオで神戸での地震を知りびっくりしました。団地のエレベーターが止まってしまい、降りることができませんでした。
その日はセンターに通所する日だったので「迎えにきて」と職員の田中さんに電話をしました。でも「今渋滞しているから行けません」と言われ、諦めて神戸市の災害対策本部に電話し「今、食べ物も飲み物も無いので何とか救助して下さい」と頼んだけど「今それどころじゃない」と切られました。もういっぺん電話すると「しつこいなあ」と言われました。更に電話すると「110番か119番に電話したらどうか」と言われたので電話をすると、もう電話線が切れていて、つながりませんでした。
唯一あったパンとお茶が、だんだん底をついてきました。ちょっとピンチになってきました。
三日後、センターの職員さんが家を見に来てくれて、その時に余震が起きました。「この家におったら死んでしまうで」と言われました。エレベーターが止まっていたので、おんぶして10階から下まで降ろしてくれました。
家は半壊でした。ちょうど、家の前の高速道路が落ちていました。それを外に出た時、初めて見ました。高速が倒れるぐらいやのに、よく家が残ったなあと思いました。
自宅の近くの小学校(芦屋市)に母と一緒に避難することになりました。いつも使っていた電動車椅子は諦め、手動車椅子を持って行きました。その小学校には1〜2週間滞在しました。教室ひと部屋に10人ぐらいが避難していました。布団も無く、毛布一枚だけ。暖房も無く、寒かったです。食事もパンと牛乳だけで、おかずはありませんでした。
しばらくして、センターの職員が学校に様子を見に来てくれて「もうちょっと待って。今、避難所を探しているから」と言われました。更にしばらくして、別の職員が「大阪に避難するところがある。介助者もいっぱいおるし、行かないか?」と言われ、早川福祉会館に行くことになりました。2月25日頃かと思います。
――早川での避難所生活はどうでしたか?
野橋 すごい数のボランティアが全国から集まっていました。多い時は100人ぐらい。数が多いとどうしても介助者に介助の仕方を教えることにかなりのエネルギーを要します。
一日だけで帰る人もいて、また次の人に教えねばならず、かなり苦労しました。継続して来てもらえる体制があった方が、今考えると良かったかなと思います。団体生活なので、同室の人と相性が合う、合わないもあります。合わなくても一緒にいなければならないしんどさがあります。精神的にはきつかったです。息抜きをしたい時は、トイレに一人籠ってホッとしていました。
大阪での生活は快適すぎて、神戸とのギャップがありました。広いお風呂、ちゃんとした食事。でも、時おり連絡に神戸から来る人は殺気立っていました。こちらはのんびりムード。何故だろうと葛藤やいら立ちがあり、ギャップを感じていました。
私はもう一人の障害者の女性と第一体験室で生活していました。避難生活をしてから、行き場があること、やることがあること、六甲デイケアセンターの仲間の大切さを痛感しました。
早川での生活は、やることも特に決まっていなかったし、商店街をブラブラしたり、部屋で本を読んだり、ボランティアさんと喋ったり、みんなで長居のスポセンにボーリングに行ったりしていました。六甲デイケアセンターの場所にみんなで半日帰って、話し合いもしました。その時に初めて交通機関がどうなっていたかわかりました。まだ復旧していませんでした。JRで、いくつも乗り換えて行きました。
良かったことは、いろんな地方の人と知り合えたことです。こんなに沢山の人と出会えることは、そうないと思います。
嫌な思い出は、私の母は自宅に残って、時々面会に来てくれていたのですが、その時泊まっていこうとしたら、滞在していたある障害者の親から「ここの規律を守ってもらわなきゃ駄目なのよ!」と言われ、大変傷ついていました。また、人が多くて疲れたのが一番しんどかったです。
山本 ずっと4階広間の男性部屋で集団生活をしました。ここは救援本部も兼ねていました。母も一緒でした。24時間べったり介助者が付くというのは今までに無い経験やった。家では母が全部介助していたから。介助者がいて良い面と、悪い面があった。気を遣ってしんどかった。介助者との暮らしに慣れていなかったので、トイレ介助とか、頼みにくいこともあった。気の合う人、合わない人があり、人間関係は結構プレッシャーだった。
嬉しかったのは、毎日風呂に入れたこと。風呂好きなもんで。つらかったのは、介助者に嫌なことを言われたこと。例えば、夜遅くまで起きていた時「自分は朝早いねんから、寝るかどうするかはっきりして!」と言われちょっと傷ついた。介助者の都合で決められるのはしんどいことやなぁと思った。
――地震の教訓をお聞かせ下さい。
野橋 まず、トイレですね。車椅子トイレがどこにあるかを把握しておいたら良かった。あと、例えば知的障害で同じ道しか通らない人がいる。道が崩れていたらそこでストップしてしまう。その点で、しばらくフォローが必要だったんじゃないかと思う。高層住宅に住む人は本当に大変だった。
震災時は、みんなが殺気立っていて、障害者に対するあたりがきつい。「鬱陶しい」とか「何でこんなとこにおるの?」とか。障害者にも健常者にも、心のケアが必要だったんじゃないかな。
また、ボランティアもやみくもに受け入れるのではなく、どの位の期間関われるのかを聞いて、短期ならお断りするべき。どんな介助を求めているのかのニーズに基づいて考えるべき。友達感覚の人が多く、ある程度の線を引かないと障害者がしんどい。介助者の教育も大事だと思う。
山本 普段からの近所とのつきあいの大切さが身にしみてわかった。人間関係が無いと、いざという時に助け合いができない。何かあった時すぐに連絡をとれないと、災害時に孤立してしまう。当事者同士の堅い絆や熱き想い、ふれあいが一番大事やと思う。
――読者へのメッセージをお願いします。
野橋 日常で言うボランティアは、障害者に「してあげる」という偽善っぽい感覚があると思う。そんな気持ちで関わられると障害者がしんどい。「ボランティアとは?」「介助とは?」各々で考えて欲しい。介助は障害者ができないことを手伝うもので「やってあげる―やってもらう」ものではない。あと、人間関係なのか介助者と障害者の関係なのかの違いも大きなテーマ。例えば、震災時のボランティアで、私が好きなアイドルや持ち物、性格など介助中に知り得た情報を他に漏らしてしまう人がいる。介助が必要な障害者ほどプライバシーが守られることが必要。その線引きはして欲しい。介助は障害者の命に関わることなので、遊び感覚ではできない。その辺の緊張感を持って欲しい。しっかりと腰を据えて関わってもらわないと障害者は困る。
一方で、震災を通じて知り合い、今も介助に入ってくれている人がいるのが嬉しい。
センターのメンバーの中にも、早川での生活がきっかけで介助者を付けて泊まることができるようになり、自立につながった者もいる。山本さんの言う「熱き想いやふれあい」の大切さは、早川での団体生活がきっかけになり皆で共有できている。私達を受け入れてくれる所があって感謝している。あのまま親戚の家にずっといたら、精神的に参ってしまっていただろう。非常時に受け入れてくれる場所があるというのは障害者にとって本当に助かることだなと心から思う。
震災時に潰れた駅の復興時にエレベーターが付いた。その意味で潰れて良かったという笑い話もある。でも、建て替えたのにエレベーターが付かなかった駅も。何故、障害者や高齢者、ベビーカーを押す人の視点に立てないのか?
山本 何かあった時に、すぐに行ける場所があれば良い。あと、普段からのつきあい。僕にとっては、震災でピア大阪とのつながりができたことが良かった。神戸に帰った後も、継続してピアカンを受けに行くことができた。ピアスクール(第6期)にも参加できたし。
――前号の「地震が来たらどうするか?」という吉村さんの記事を読んで、当事者・経験者の立場から意見や感想はありますか?
野橋 「震災が起きた時、前もって自分の障害や日頃飲んでいる薬を書いた紙を持つ」というのは、自分で言えない障害者にとっては特に必要なことだと思う。ただ、地域との交流と言われても、今の時代はヨコのつながりが薄い。障害者への差別・偏見がまだまだ消えない中、障害者だけが頑張って地域との関係を作るというのはかなり難しい。言語障害があったりすると「頭おかしいだろう」って思われたりする。周りの人が手伝ってくれなければ、個人で関係を作れと言われても無理がある。地域との関係がたとえ作れていなくとも助けてくれるような体制があるべき。特に私は気が弱く、積極的にと言われても「何故障害者だけがそんなに頑張らなあかんの?」と思ってしまう。障害者だけに任せるのはおかしい。「机の下に逃げる」とあるが、障害にもよるけど、動けたらそうしてるやん。動けない人がどうやって潜るの?
私は、基本は何を準備するもしないも障害者本人の自由だと思う。決め付けられることに窮屈さを感じるし、「障害者だから危険に備えよ」というのはおかしな話だと思う。吉村さんのマニュアルに沿うのは難しいんじゃないかな。
山本 書いてある通り上手くいったら良いけど、たぶんそうもいかへんと思う。さっきから言ってるように、普段からの関係が大事。助け合いができるかどうかは、普段の関係性次第だと思うよ。
――ありがとうございました。
笑顔がステキな野橋 順子さん 男らしく語ってくれた
山本 健隆(けんりゅう)さん