■表紙 ピア大阪ニュースドリーム28号 2009年7月発行 私にとっての障害受容パート13 今回は、下村(しもむら)さんです!! 写真:大阪市立早川福祉会館の玄関前で撮った下村雅哉(しもむら・まさや)さん ■お知らせ 2009年度第2回ピア大阪人権講座「高次脳機能障害について」〜現状と今後の課題〜 日時 :2009年9月19日(土)PM1:30〜4:30  場所 :大阪市立早川福祉会館 4階第3会議室 内容 :高次脳機能障害とは、事故や病気で脳に損傷を受け、日常生活や社会生活への適応困難になる障害です。外見上は障害が目立たないため周囲から誤解を受けることもあり、社会復帰に際して様々な障壁があります。そこで、今回の人権講座では、高次脳機能障害の正しい理解と認識を深めることと、今後の地域生活・社会参加の展望についても参加者とともに考えます。 ------------------------------------------------------------------------------------- ★内容★ ◎連載企画!!「私にとっての障害受容」パート13 ◎2009年度 第1回 ピア大阪人権講座報告 ◎「障害者権利条約」と「障害者差別禁止法」等について ◎新スタッフ紹介 ◎ピア大阪情報資料室 ご存じですか? ◎付録「第1期ピアカレッジ」チラシ ◎付録「2009年度 第2回 人権講座」チラシ ※このニュースドリーム28号では、大見出しの先頭には■、小見出しには◎を付けています。 ------------------------------------------------------------------------------------- ■連載企画!!「私にとっての障害受容」パート13 イラスト 封等と一輪の花 当事者なら障害があることで一度は悩みしんどい思いを抱えたことがある人は多いと思います。障害受容ができにくい理由は人それぞれですが、何かをきっかけにもっともっと自分を好きになって楽しい人生を送ってもらいたいという願いを込めて『ニュースドリーム』では当事者の方々の障害受容をめぐっての連載をしています。第13回目の今回は自立生活センター・まいどで活動されている下村雅哉(しもむら・まさや)さんです。 ◎プロフィール 下村 雅哉(しもむら・まさや) 障害 脳性麻痺 1種2級 1968年 1月31日生まれ 1986年 高校卒業 1986年 授産施設入所 1992年 ライフネットワークにかかわる 1998年 自立生活センター・まいどに勤務 ニックネーム まあぼう 写真:大阪市立早川福祉会館の玄関前で車椅子に乗った下村雅哉(しもむら・まさや)さん ◎タイトル:障害受容   「100回自分のことが嫌い」でも「101回自分を好き」になればいい!  僕にとって、障害受容とは、「自分のことを好きになること」「自分を認めること」だと思う。でも、なかなかできない。だからこそ、「自分を認める」ということを何度も何度も思い出す作業が必要だと思う。    「障害受容」というテーマで原稿依頼を受けてから、自分の半生を振り返ると、どんな時も、何かにすがるようにして、自分を認めていたように、思っていた。またそんな材料を求めていた。これからも、どん欲に「自分を認られる」材料を追い求めていくと思う。 昭和43年1月31日生まれ。  生後、呼吸が出来なかったために、すぐに泣かなかった。約2週間高熱が続いて、それが原因で脳性麻痺となる。 幼少期〜  大阪府立身障者センターや肢体障害児通所施設「あけぼの園」で日々、機能訓練に励む。両親からは、自分の毎日の訓練が生活の中心だったと、聞かされている。まさに、雨の日も風の日も、訓練の毎日であったそうだ。  その訓練の成果なのか、4歳の時、つたい歩きを始める。 イラスト:平行棒のパイプに掴まり歩行訓練をしている子ども。 養護学校時代〜  大阪府立堺養護学校小学部に入学。  学年が進んでいくうちに、校内中を歩き回ったり、いろんなスポーツにチャレンジするようになる。  また、家では駒付き自転車に乗れるようになった。休日になれば、かなり離れた村まで行って、弟と一緒に探検していた。高学年になるにつれて、なぜか近くにある中学校に興味がわいて、春休みとか夏休みに、無断で校舎に入り、探検した。  ある日、誰もいない1年の教室の中に車椅子が1台あることに気がつく。「この学校にも障害のある子もいるんだ。」と思った。  中学校に上がると、一人の友達が、一般学校に転校したことを知る。同じ頃、父方の祖母が倒れて、母親が自分の学校への送り迎えや、付き添いが困難な状態になった。両親に「一般の中学校に行きたい」と伝えた。中学1年2学期から校区の中学校に転校。 イラスト:車イス 中学・高校時代〜  初めて健常の子と毎日を送るので、みんなに付いていくのが精一杯だった。そして、当然の事だが、今までの重度の障害の子を助ける立場から、みんなから助けられる立場になってしまい、とても戸惑いを感じた。そんな中で秋の体育祭で、全校生徒2000人の行進に加われたことの感動は、いまでも覚えている。しかし、その頃から、いじめ・無視が始まる。自分に対するささいな言葉に、毎日神経が高ぶり、しばしば泣いてしまう事もあった。周りからは、「あいつといてたら、先生から誤解される」と思われてしまい、だんだんと友達が離れていき、苦痛な毎日が続いた。学校を休みがちになってしまい、「もう養護学校にもどろうか」と何度も考えた。しかし、今戻ってしまえば、絶対後悔してしまいそうな気がした。養護学校の友達の電話にも、変に強がっていたように思える。2・3年と新しいクラスにかわる度に、本当に信頼できる友達に出会うことを期待していた。でも、今から考えると、障害を変に隠したり、また逆に「どうせ、みんなとは違うから」とあきらめてしまったことが、自分がいつもみんなの中に入れなかった要素ではなかっただろうか?  そんな中で、3年までなんとか過ごした。高校進学では、「養護学校の高等部に編入」を考えたが、「自分の世界を広めたい。いろんな人と交流したい」また「みんなと一緒に高校受験にチャレンジしたい」という気持ちを大事にして、一般高校の進学を希望した。しかしながら、はっきり言って漢字の読み書き、数字も小学校低学年のレベルしかなかったので、苦労した。3年生の夏休みなどは、毎日学校に行き、先生方に教えてもらった。そして、なんとか合格する。  高校になれば、「自分も含めて、周りも大人になり『いじめ』などはなくなっていく」と思っていた。確かに、中学よりは、以前の明るい自分になり、クラスの中で人気者になった時期もあった。でも、それはいつも一時的なことで、悩み事を言える友達はできなかった。学校の帰り道に喫茶店に寄ったり、休みの日に外出したり、といったごく当たり前の高校生の過ごし方ができなかった。もどかしかった。障害者だからなのか? それとも、自分がひ弱からなのか? ずいぶん悩んだ。でも、毎日学校に送ってくれる親には、弱音は言えなかった。大学には初めから行く気がなかった。 高校卒業後(1986年)は、あいえる協会の前身であるライフ・ネットワーク作業所(1992年)にかかわるまでの経歴は、約1〜2年転々としながら、自分の居場所を求めていた。 1986年3月 高校卒業  @信仰していた宗教の修養という名目で、初めて家族と離れて暮らす経験をする。  A1年間、障害者職業訓練校に通う。自分と同じような悩みを持っている友達と出会う。 「障害者の就職懇談会」にかかわる。  B堺の作業所へ通う。メンバーの中に施設から出て一人暮らしをしている障害者と出会う。  C経理専門学校に通い、一般就労を目指す。20社近くの会社を受けるが、採用してくれなかった。 障害者運動と自分の自立  1970年代、障害者に対しては、障害を軽減する「発達保障」という考え方が主流で、障害を克服するものだととられ、障害者は日々訓練に追われてきた。重度障害者は、「安心・安全の暮らし」という名のもと、大規模施設が次々に作られ収容されてきた。  その状況を打開するために、身体を張って、社会に抗議やアピールをした「障害者運動」が始まった。しかし、重度障害者は施設へという流れは根深く、現在でも残っている。  どちらかというと軽度障害者であった私も、学校を卒業してから「自分の居場所を求めて」という想いから施設に入った経験がある。自分では、「授産施設」を選択してしまったという想いがあったが、今思えば、やはり障害者が地域でうける抑圧の中で、「施設」を仕方なく選んでしまったと感じる。  私が経験した施設生活とは、朝から晩まで作業に追われ、一歩も施設内から出ることがない日が続いた。そんな生活にもなじもうとしていた。  私より若かった入所者から「私は、どうせ、施設のたらい回しされるから、夢なんかない」という発言が印象的だった。その言葉に対して何もコメントをできなかった自分も覚えている。また施設長からは、「いいニュースがあります。隣りに老人ホームを建てます。これでみなさん一生ここで安心して暮らすことができます」と自慢げに言われた。その言葉に対して、何も反論はしなかったが、とても嫌な気分になったことは、今でも思い出される。 「施設の障害者・外出ネットワーク」にかかわり、施設訪問し、施設障害者にあうたび「長年、施設に暮らしている障害者」「いったん、施設に入ると一生施設で…」という言葉が実感できた。  その一方で、「障害者の活動と生活は、障害者自身で切り開く」という理念があり、「仲間作り」「障害者の主体作り」の大切さを学んだ。その中で自分自身の自立生活も考えられ、一人暮らし(自立生活)を始めたのか1993年。  活動は、施設からの地域移行を、「ピア」仲間として「自立支援」や「生活支援」に現在もかかわっている。 イラスト:テーブルを囲んで話をしている5人の男女。(1人は車イス) ピアの力を…感じて  ぜいたくかもしれないが、今の私の歩き方には3パターンの方法がある。  まず、一つは「地下鉄など遠出の予定があるもしくは雨模様なら電動車椅子で…」「区内の移動なら、自転車で…」「徒歩」と、天候、行動範囲で、電動車椅子、徒歩、自転車の歩き方を使い分け・選択している。  ここに至るまで、さまざまな葛藤があった。  まず、単独歩行は、小学校でようやく「よちよち歩き」を始めた。三輪自転車の方は小学高学年のころから乗り始め、自立生活をスタートしてからも、通勤や買い物などの近距離の移動には欠かせないスタイルだった。  足で歩くことにこだわっていた。歩くことに汗を掻き全エネルギーを注いでいた。障害を否定的には、もちろんとらえてなかったが、「格好よく歩かなくちゃ」と意識が常にあった。  周りの人からは「おまえも電動を使ったら…」とずっと前から言われてきたから。自分も「三輪自転車のままで電車に乗りそのまま繁華街を三輪で移動したら、どんなに楽なことだろう…」といつも感じていた。  でもその一方で「まだ歩けるのに…」「電動車椅子に頼ると足が弱くなる」と言う想いがあった。まいどの活動の中でも「相談者に対して、制度やサービスを促す立場なのに…」という葛藤もあった。  …で、決断できたのは、やはり仲間の存在だ。自分と同じような障害の方が、簡易電動車椅子を利用している姿を見たり、話を聞く場面が増えてきて、まあぼうも、次第に柔軟な発想になり、「歩くのに活力を注ぐよりも、移動先で、いろんな人と出会いやコミニュケーションを取ることにエネルギーを注ぎたい」という想いから、戸惑いながらも、簡易電動車椅子を利用することを決断できた。   簡易電動車椅子を利用すると、言うまでもなく、行動範囲が広がったり、体も楽になり、さまざまな人とつながりができていること実感している。  それと、簡易電動車椅子を利用し始めた途端、よく利用する駅にエレベーターが付いたりしたことは驚いた。  その背景には、電動車椅子の利用者達が長年にわたって行ってきた、地道な運動の成果を感じながら、感謝しているところ。まだまだ、人生半ば、ワクワクしながら挑戦していきたい。そんな自分を楽しんでいきたい。 ◎障害受容をめぐっての連載「私にとっての障害受容」も今回で13回目となり、みなさんに好評をいただいているコーナーとなっています。今までのバックナンバーを改めて紹介させていただきます。 14号 パート1:頚髄損傷 東谷 太(ひがしたに・ふとし)さん            15号 パート2:脳性マヒ 小坪 琢平(こつぼ・たくへい)さん           16号 パート3:視覚障害 谷口 由里子(たにぐち・ゆりこ)さん 17号 パート4:精神障害 森 実恵(もり・みえ)さん 19号 パート5:軟骨無形成症 安原 美佐子(やすはら・みさこ)さん 20号 パート6:脳性マヒ 岸田 美智子(きしだ・みちこ)さん 21号 パート7:視覚障害 野々村 好三(ののむら・こうぞう)さん 22号 パート8:盲ろう 町田 拓(まちだ・たく)さん 23号 パート9:頚髄損傷 渕上 賢治(ふちがみ・けんじ)さん 24号 パート10:シャルコマリートゥース氏病 内村 恵美(うちむら・えみ)さん 25号 パート11:脳血管障害 山浦 孝臣(やまうら・たかおみ)さん 27号 パート12:脳性マヒ 馬渡 健二(まわたり・けんじ)さん --------------------------------------------------------------------------------------------------- ■2009年度 第1回 ピア大阪人権講座報告 「働きたいねん!」を支えるには 〜 精神障害者の就労支援について 〜 講師 村松 昭典(むらまつ・あきのり)さん <地域活動支援センター オリーブ 職員> 幸田 雅文 (ゆきだ・まさふみ)さん <地域活動支援センター オリーブから就職した当事者>  高瀬 優子 (たかせ・ゆうこ)さん <大阪市障害者就業・生活支援センター 職員>  松下 昇司 (まつした・しょうじ)さん <大阪市障害者就業・生活支援センターから就職した当事者> コーディネーター 川嶋 初音 (かわしま・はつね)さん <地域活動支援センター もくれん 職員> 日時:2009年7月4日(土)13:30〜16:30       場所:大阪市立早川福祉会館 4階第3会議室(ホール)      参加者55名 <コーディネーター川嶋(かわしま)さん>  初めに、コーディネーターの川嶋(かわしま)さんより2008年厚生労働省のデータから障害者の就職件数の説明があり、平成13年は27,072件で、平成19年は45,565件と増加した。うち身体障害者24,535件、精神障害者8,479件で精神障害者の就職件数は著しい増加傾向にある。  増加の理由は、平成17年雇用促進等に関する法律の改正があり、精神障害者が雇用率の算定対象にはいったためである。また、地域の就労支援態勢の充実、精神障害者の就労意識の高まり等も要因になった。  このような実情がある反面で、雇う側の立場では雇用に際し配慮や対応の仕方がわからない、不安があるなどの理由で雇用が低迷している事実もある。今、日本社会は経済不況であり、雇用不安等、働くことをめぐる問題は地域の中で山積みである、との話があった。 写真:舞台を背に左側から川嶋(かわしま)さん、そのお隣には右側へ幸田(ゆきだ)さん、村松(むらまつ)さん、松下(まつした)さん、高瀬(たかせ)さんと順に座っている様子 <村松(むらまつ)さん>  村松(むらまつ)さんから次のように、オリーブの紹介があった。平成11年小規模作業所としてスタートして、平成18年障害者自立支援法のもと地域活動支援センターとして活動を開始した。  地域で生活する障害のある方の相談に応じ、必要な情報の提供や、権利擁護のために必要な援助等を行うことにより、障害のある方が豊かな日常生活または社会生活を営むことができるように支援することを目的とした施設である。  居場所として、日中ゆっくりと過ごしたい。話せる仲間作りやゆっくりと心落ち着ける場所としての利用、働く場として、社会に出て働きたいそんな方には、希望に応じて、さまざまな作業メニューを用意している。  写真:舞台を背に左側に幸田(ゆきだ)さんがマイクを持って話していてそのお隣りにはマイクを持った松村(むらまつ)さんが座っている様子。 <幸田(ゆきだ)さん>  発病は大学時代から。この人なんで自分のことを知っているのか、自分のうわさ話をしている等の妄想が始まった。授業中はしんどくて、学校に行くのが嫌でひきこもり状態になった。母と弟に連れられて病院に行った。統合失調症と診断された。治療は投薬、デイケア、リハビリがあった。  留年をしながら、大学を卒業した。しばらくして職業安定所から大阪市職業リハビリテーションセンターの紹介を受け、職業リハビリテーションセンターからオリーブを知った。オリーブで昼間メール便の仕事を1年間行った。仕分けをして、一人で配るのがよかった。まるで、小旅行をしているような気分だった。  以後、メール便の仕事を続けながら、クロネコヤマトの宅急便にて夕方5時から8時まで週5回契約社員として働いている。仕事は荷物を運んだり、パソコンの入力をする仕事をした。腰を痛めたり、精神の病気で時々休んだりした。会社からは、しょっちゅうは休まないでほしいと言われたが、会社は大変理解があり、継続して働いている。  講演後、SMAP(スマップ)の「夜空のムコウ」をギター演奏して歌った。 写真:幸田(ゆきだ)さんがイスに座りながらギター演奏している様子。 <高瀬(たかせ)さん>  高瀬(たかせ)さんより、大阪市障害者就業・生活支援センターは、働くことを希望する人や、すでに在職している人に対して、企業就労に関するサービスを提供し、就業の場の確保と安定した職業生活を支援する。企業に対して、障害者雇用に関する啓発、情報提供、相談等を行い、雇用促進を図る。  2009年度より、7ヵ所の区割りが設定された。区割りは目安なので、住まいに近くのセンターにご相談ください、との紹介があった。 写真:舞台を背に左側に松下(まつした)さんがマイクを持って話していて、そのお隣には高瀬(たかせ)さんが座っている様子。 <松下(まつした)さん>  前の会社では、無邪気だった。仕事のすすめ方ひとつにしても、早くやれと言われれば、ただがむしゃらに急いだ。落ち着きがなく、呼吸ひとつつするのにも急いでいたような記憶がある。  自分の性格はおとなしく内向的で、誰にでも積極的に話していけないタイプで、このような大勢の前で話すというのは考えられないくらいだった。20歳ぐらいの頃は、就職して慣れはじめの頃、積極的に先輩に話している友人や冗談ばかり言っている人に対し、うらやましく思い自分もそうなろうと努力をしていた。更に、友人からは「お前、暗いのう。もっと明るくなれや」とも言われていた。明るく、積極的に振る舞える人が人間として理想的であり、そういう価値観に翻弄されていた。  訓練の時は小刻みに時間を延長していった。調子のいいときでも力を使い過ぎず、気持ちに余裕をもった。眠れない時でも会社へ行って作業をした。正社員になるときストレス、不安はなかった。あまり意識しないで、指示された仕事をこなしていく。正社員になって4年目、今の仕事は印刷、製本して雑誌として各地に発送する。会社のみんなと同じ仕事をしている。  過去の自分がいるから今の成長した自分がいると考える。それは今の自分に自信を持てる事が必要だと思う。背伸びをして、なりふりをまねするのではなく、一歩一歩踏みしめて成長した上で過去を振り返ると昔の自分が懐かしくなる。でも、その時の自分には戻らないんだと思う、との話があった。  松下(まつした)さんの会社の上司もこの人権講座に参加され、温かい言葉をかけておられた。  会場からは、各講師に活発な質問がでていた。 --------------------------------------------------------------------------------------------------- ■「障害者権利条約」と「障害者差別禁止法」等について  北野誠一(きたの・せいいち)(自立生活支援センター・ピア大阪運営副委員長) ◎今回は「障害者権利条約」と「障害者差別禁止法」等について考えてみよう。前者はまだ批准されていないし、後者はこれからである。「障害者権利条約」は、批准されれば国際法として「憲法」に次ぐ意味を持つ事になるわけだが、そうなれば、「障害者基本法」の見直しにも重要な意味をもつことになるだろう。さらに「障害者差別禁止法」にも重大な影響をあたえるに違いない。とりわけ第33条の「国内実施・監視機関」をどのように設置するのかである。「障害者虐待防止法案」には、都道府県レベルの「障害者権利擁護センター」が、人権侵害に対する調査及び調停の機関として考慮されていると聞く。そして、これらはすべて、相互に大きく関係し合っているように見受けられる。  私たちは、ここでいくつかの提案をしたいと思う。 @5年ごとに見直される「障害者基本法」の重要性と、それにともなう「制度・政策法」の改正について   障害者支援施策はその時代・文化の展開と共に変化する部分も大きい。それゆえに、その基本理念や基本政策が見直されて当然である。しかし、基本法はあくまで基本法であって、そこに細かい施策体系やその実行性を担保する仕組みを盛り込むことはできない。5年ごとに、基本理念や基本施策を見直し、条文を修正・改正し、それに基づいて、下位法である、各制度・施策や各分野の諸法を改正もしくは新たに作成すべきである。 A「国連障害者権利条約」の批准について  これは、障害者の社会的・市民的参加に関係するすべての法と施策の見直しと、その見直す方向性の明確化無くしては在りえない。早期に批准をして、ともかく「国内実施・監視機関」を勝ち取るべきなどという論には、何の意味も無い。たとえば介護保険の不服申立機関である「介護保険審査会」がおよそ不服申立機関としての体を成していないことを知るべきであり、さらになぜそれが体を成さないのかを知るべきである。同じことは、福祉サービスの各事業所の苦情に関する第3者委員にも、また都道府県レベルでの苦情解決委員会にも言える。福祉サービス事業所における苦情に関する第3者委員は、そもそも法人理事会の選任という中立・公正性を欠いた仕組みである。さらにたとえば鹿児島県の19年度の福祉サービス運営適正化委員会の業務報告書は、苦情解決委員会が扱った全事例を載せているので、何が問題なのか把握しやすい。年間45件しかない苦情の内、あっせんや県に通知されたケースはゼロで、本人から苦情を聞いただけのケース24件、担当市町村等に伝達したケース15件、その他6件、それだけである。利用者の苦情を聞いて、それを市町村に担当課にリファーするだけで、その結果どうなったかのフォローもほとんど為されていない。45ケースの内権利侵害は2ケースだというのだ。いったいなぜこんなことになるのか。知れたことで、この委員会には、実質的な調査権限も、調査スタッフも調査のためのノウハウも何も無いからである。福祉サービス利用者とサ−ビス提供者の対等な契約関係を担保するために作られた権利擁護の仕組みのこれが実態であり、おそらくわが国の津々浦々で、こんなことがまかり通っているのである。鳴り物入りでできた「介護保険審査会」と「福祉サービスに関する苦情解決委員会」がこの有様である、後は推して知るべしであろう。実に道は遠く長いが、その進化のスピードをギアチェンジする必要があろう。これは、早急に形だけの「国内実施・監視機関」や「障害者権利擁護センター」を勝ち取ることとは、まったく異なる。これから数年かけて、行政・医療・教育・福祉・雇用・移動交通・住居・一般消費等の分野でどのような権利擁護のシステムを構築すべきかを、障害当事者を含めたまともなメンバーでまともな委員会等を立ち上げて、わが国民は真摯に論じ、それに予算をつけ、仕組みを構築し、主要な人材を国内を含めて世界中の学ぶ価値がありかつ研修システムを擁する機関に金を惜しまず研修に出し、その人材を持って国内チームの養成を行ない、彼らの意見と活動とシステムを共に担い、尊重する他ない。「国連障害者権利条約」の批准という大きな関門は、物づくりに関するノウハウしかないこの国において、とりわけ権利擁護に関しては、世界から大きく遅れを取っていることに素直に気づくべきいい機会であろう。   B「障害者総合福祉サービス法」と「障害者差別禁止法」との関係について   「障害者総合福祉サービス法」と「障害者差別禁止法」の両者の関係は、言わば車の両輪のようなもので、どちらがパンクしても、車は正常には運転できない。ここで車の正常な運転とは障害者の地域自立生活を意味している。「福祉サービス」が要らない障害者もいるかもしれないし、「差別」を経験しない障害者もいるかもしれない。しかし、そのような障害者には一般施策で十分であり、「差別禁止法」はいらないという事にはならない。なぜなら、憲法をはじめ各種の法が、私たちの生活を全体として守り、機能させているからこそ、今の私たちの生活が在るからである。「差別禁止法」が無ければ、無いナリの抑止力が、市民生活全体を形作っており、「差別禁止法」があれば、その実効性ナリの抑止力が市民生活全体に影響を及ぼすからである。そのことについては、2000年11月号の『月刊ノーマライゼーション』にこう書いておいた。   「(アメリカ)ビジネス界も大統領も反対した、法律違反に対する一般的な損害賠償以外に懲罰的損害賠償(Punitive(ピューナティブ) damages(ダメージズ))を付け加える問題については、民主党が障害者団体と共に見事な戦略を講じた。つまり、市民的権利法と連動することによって、市民的権利法で規定された以上の賠償を求めないことを確約しておいて、ADA(エーディーエー)法案が通過すると同時に、懲罰的賠償の条項を組み込んだCivil(シビル) Rights(ライツ) Act(アクト) of(オブ) 1991≠勝ち取ることによって、悪質な差別については懲罰的損害賠償への道を開いたのである。ADA(エーディエー)のような差別を禁止する法律では、金銭的損害賠償の強制力が不可欠である。そのことによって、法を破ることは法を守るよりも金がかかることが周知徹底されるからである。」  まさに一罰百戒であって、それは、「差別禁止法」を使って、実際に差別を訴える、訴えないにかかわらず、その社会の規範として作用するのだ。車の両輪のもう一方の「障害者総合福祉サービス法」も、これまた、それを必要とする者はもちろんのこと、必要としない者にも、その社会の福祉力として影響をあたえる。ひとつは自分の直接関係する家族・親族や友人・仲間や近隣・地域住民がそれを活用して、<あらゆる場面で平等に社会に参加し、健康で文化的な地域生活を享受>していることを目の当たりにできる喜びであり、自分に直接関係の無い市民がそれを活用して普通の市民として生きる社会の豊かさやダイナミズムを享受することができるからである。  私たちが将来障害者になる可能性があるからだけでなく、そうならなくても、地域社会には多様な人がいて、その多様な人たちとの関係こそが、私の豊かな人間性と自分自身の解放に誘うがゆえに、私はその社会を担うものとして社会契約を交わし、アクティヴな民主主義社会を創出しているのに違いない。私たちの福祉サービスの利用契約もまた、そのような大きな社会契約という大いなる信認の理念の下に成立しているのであるが、大いなる契約と信認を見忘れれば、悲しいかな相互不信に基づくリスクマネジメント、つまりは「それしかしません。それ以外は別料金です。これは虐待とは見なしません。こんなことをすれば、契約は打ち切ります。その際の違約金は○○(まるまる)が負担します。」といったネガティヴな関係のあり様のオンパレードであり、理念無き市場原理の餌食とならざるを得ない。  実は、多くの虐待や人権侵害が「福祉サービス」の欠如・不足やそのコーディネーションのまずさ、さらには、「福祉サービス」と「差別禁止」の噛み合わせの悪さから起こっていることは確かである。周り・関係者・支援者を追い詰めるような福祉力やゆとりのない地域社会や、ちょっとしたドジやミスで誰かを問い詰め、そこから学んでエンパワーメントしてゆくことを許さず、人をだめにしてゆく「遊び」「ゆとり」「許し」のない社会は、「福祉サービス」と「差別禁止」の両者が共に決定的に不足しているのか、それとも、両者をうまく使いこなせていないかである。この国は、これから、そのどちらのケースをも乗り越えてゆけるようなシステムと文化を構築してゆかねばなるまい。 ◎(この原稿は茨木・大熊・尾上・北野・竹端編著 『障害者総合福祉サービス法の展望』 (ミネルヴァ書房 2009年の拙稿の一部を活用した。詳しくはこの本を是非とも参照していただければ幸いである。) --------------------------------------------------------------------------------------------------- ■〜 新スタッフ紹介 〜  7月1日から、ピア大阪で勤務することになりました参事(※)の後藤二良(ごとう・つぐよし)です。ピア大阪のスタッフのみなさんや関係のみなさんにご支援、ご指導をいただき、一日も早くこの職場に慣れスタッフの一員として仕事に取り組んでまいりたいと思っています。  この「自立生活支援センター・ピア大阪」が障害者の自立生活の拠点として、障害のある方々から親しまれるよう、スタッフのみなさんと力を合わせ共に努力をしてまいりたいと思っています。よろしくお願いいたします。  (※ 参事とは施設長にあたる役職) 写真:大阪市立早川福祉会館の玄関前で後藤二良(ごとう・つぐよし) --------------------------------------------------------------------------------------------------- ■ピア大阪情報資料室 ご存じですか? イラスト:女の子と男の子が本を読んでいる  ピア大阪情報資料室には障害者に関するさまざまな本や資料が4200冊あります。その他、新聞の切り抜き、全国の自立生活センターの機関紙などもあります。  まずは、ピア大阪の扉を遠慮なくトントンとたたいてください。 本は、ひとり2冊、2週間借りることができます。 例えばこんな時 どんな本や資料があるの、どんなふうに活用すればいいの? 障害者問題に関する資料をさがしたいなどなど…。 担当者に気軽に声をかけてください。 お忙しいあなたにも必見!! そんな声にお応えできるよう、 いつでも好きな時間にホームページからも図書検索ができるようになっています。 一度アクセスしてみてくださいねっ。 ホームページ: http://www.fukspo.org/peerosk/ 開室時間 9時〜17時 ※図書検索について、現在、データベースを作成中で随時更新しています。検索ができない場合は自立生活支援センター・ピア大阪までお問い合わせください。 みなさまのご利用お待ちしています!! --------------------------------------------------------------------------------------------------- ■編集後記   『ピア大阪ニュースドリーム』28号をお届けします。みなさま、お元気でお過ごしでしょうか。  ピア大阪では新たに「第1期ピアカレッジ」を開催します。ピアスクール修了生の方は是非、受講してください。  『ピア大阪ニュースドリーム』の入手を希望される方は、お気軽にピア大阪までご連絡下さい。 点字版・テープ版・デイジー版も作成しています。ピア大阪のホームページでもご覧になれます。(Y・N) 2009年7月31日 ---------------------------------------------------------------------------------------------------   社会福祉法人 大阪市障害者福祉・スポーツ協会 自立生活支援センター ・ ピア大阪 〒546−0033 大阪市東住吉区南田辺1−9−28 大阪市立早川福祉会館内  電話 06−6622−1180  FAX 06−6622−0423 ホームページ http://www.fukspo.org/peerosk/ 年間購読料 500円 ---------------------------------------------------------------------------------------------------