新連載企画!!

「私にとっての障害受容」〜パート1〜

 NPO法人 あるる 自立生活センター・あるる
                    東谷太さん
みなさん、こんにちは!!編集担当の一人の杉井(すぎい)です。今回、障害受容をテーマにスタッフと話合っていていろんな人の話を聞きたいと思いました。障害を肯定的に受け入れることができずしんどい思いを抱えたり就職・恋愛・結婚など大きなターニングポイントの時、悩んだという人はおられるのではないでしょうか?そういう私も、そのひとりでした。私は二分脊椎症で3年ぐらい前から障害の進行がすすみ妊娠・出産を機に急激に重度化しました。現在も進行はすすみ、杖を使わずに歩くことが困難になってきています。障害があっても自分らしく生活をしている人、障害は個性であるという考え方を頭の中では理解していてもいざ自分に置き換えるとうまく整理ができない時が多々あります。特に私の場合は一児の母親となり子育てを通じて母親としてやってあげれない・できない自分に苛立ちを感じたことが障害を肯定できない一番の大きな原因になったと思います。『ニュースドリーム』で当事者の方々の障害受容をめぐっての連載をしていきながら私を含めこれを読んでより多くの人が自分らしく楽しい人生を送れるよう何か心に響けばいいなぁ〜と企画しました。第1回目は、自立生活センター・あるるの東谷太(ひがしたに・ふとし)さんです。
プロフィール

東谷太(ひがしたに・ふとし)1963年6月生まれ
 
 1983年 2月 原付バイクによる交通事故により頸髄損傷になる。
 1984年 9月 リハビリのための入院、その後約7年間在宅で寝たきり生活を送る。
 1991年11月 普通4輪自動車運転免許取得
 1992年 4月 大阪府障害者職業能力開発校メカトロニクス科入校 
           大阪頸髄損傷者連絡会入会
 1993年     一人暮らしを始める。
 1994年 4月 自立生活支援センター・ピア大阪就職
 2003年 3月 自立生活支援センター・ピア大阪退職
 2003年 4月 特定非営利法人あるる代表理事就任

 障害受容って、とても難しいテーマだと思う。何をもって障害受容したと言うかも人によって意見は違うだろうし・・・。そもそも障害受容ってできるのか?とか、しなければいけないものなのか?ってことになったりするかも知れないので、ここでは僕自身の障害受容について書いてみたいと思います。
 プロフィールにあるように、僕は19歳の時に原付バイクの事故で首の骨を折って「頸髄損傷」(以後、頸損とする)になったのですが、現在44歳なので早いもので障害者になって25年になりました。いつの間にか健常者だった年数より障害者になってからの年数の方が長くなってしまったので、もう何年も前から、健常者だった頃の感覚がかなり薄れてきています。そのせいか、夢の中の自分も頸損として登場することの方が多くなりました。以前に誰かが、「夢の中でも車イスに乗ってるようになったら障害受容ができたということだ」と言ってましたが、あまり信用できるとは思えませんねぇ・・・。(笑)
 さて、僕にとっての障害受容ってことですが、この原稿を書くにあたってあれこれ考えていくうちに、段々わからなくなってきたので、まず、今の自分が障害者であることを嫌だと思うことがあるか?と自分に問いかけをしてみました。たとえば、頸損だから体温調節ができなくて異常に暑かったり寒かったりする。そのことで調子が悪くなって普段できることができなくなるということはある。それは確かにやっかいだけど、そのことで頸損であることが嫌になるかと言えばそんなことはない。トイレが我慢できずに失禁や失便をして大変なことになる。おなかの調子が悪いときは、トイレ事情の悪いところへは行きたくない。というか行けない。飲み会のときに失便してしまって途中で帰らなければいけないこともあった。これも、やっかいではあるけど、そのことで頸損であることが嫌にはならない。昔は泳ぎが得意だったので、暑いときは泳ぎたい。何年か前に近所のプールに彼女と行って、全身に力が入ることは入るし、きっと泳ぎ方を身体が覚えているだろうから泳げそうな気がしたので、手を離してもらって泳いでみたら溺れた。(笑)けど、だからといって頸損であることが嫌にはならない。では、なぜいろいろと大変なのに嫌にならないかというと、「頸損ってそんなもんや。」とか「頸損なんだからしゃーない(仕方ない)。」とか「それはそれでおもしろい。」と思えるようになってるからだと思う。それはやはり25年という時間が大きいとは思うんだけど、でも、同じ25年間があったとしても、もし以前の自分のように、ほとんど外出することのない25年だったら、こうは思えていなかっただろうとも思う。
 僕には受傷して約7年間ほどの寝たきりの時期があって、当時は外出も月に1度の通院だけという状況でした。その頃は「何で自分だけが」という思いが強く、「障害を受け入れる」とか「障害者でええんや。」なんてことはとても考えられませんでした。というか、「障害者でええんや。」なんていう価値観があることすら知らなかったので、自分の障害を否定的に捉え、失われたものにのみ囚われて、嘆き悲しむことしかできていませんでした。
 そんな僕が、人生を楽しむように変わっていけるキッカケをくれたのが、今から約18年前、当時僕のリハビリ(作業療法)を担当してくれていた先生でした。当時の僕は結核を患って入退院を繰返していて、そのときにこの先生が僕の担当になったことで出会いました。僕が退院した後のある日、「今度、東谷君の家の近くの○○プラザでイベントがあるから参加しない?」と声を掛けてくれたんですが、当時の僕は当然一人で外出したこともなく、出掛けるときは家族と一緒が基本だったので、僕が「行ってみたいけど、家族の都合が・・・。」と言ったら「一人でタクシーに乗って来たらいいやん。」とあまりにも軽く当たり前のように言われたので「えーっ!そ、そんな簡単に言われても・・・。(ていうか近いといっても車で30分くらいかかるやん。)」と僕が言っても、先生のトーンは変わらなかったので「じゃあ、一人で行ってやる!」と、これまた簡単に乗せられた形になって、一人でタクシーに乗って(もちろん乗り降りは手伝ってもらった。)会場まで行きました。この時が、頸損になって初めて一人で出掛けた日だったんですが、当時の僕にとって、一人で出掛けるというのは相当な冒険だったため不安も大きかったけど、実際やってみると家族と一緒でない外出って、こんなにも解放感があってワクワクするもんなんや。という充実感がありました。今から考えるとまるで、「はじめてのおつかい」みたいなレベルの話だけど、自分にとっては、これが自立の第一歩だった気がします。その後、その先生に誘われて、同じ頸損の仲間の会である「大阪頸髄損傷者連絡会」の役員会に参加するようになって仲間と出会い、いろんな行事にも参加するようになり、外出の機会も段々増えて行きました。こうして、外出の楽しさを知り、仲間と居ることの安心感を覚えるうちに、それまで「何で自分だけが」と苦しんでいたのが、「一人じゃないんや」と思えるようになっていきました。また、この後、ピア大阪の前身である「自立生活センター研究会」に参加するようになって、「自立生活センター」や「自立生活運動」というものを知り、「障害者でええんや。」という価値観があるということや、「障害者は、まだまだあらゆる場面で差別を受けていて、それは障害者であるという自分たちが悪いのではなく、差別をしている社会の側が悪いのであって、変わるべきは社会である。自立生活運動とは、障害者の自立と社会参加を広めていくことを通して社会を変えていく運動である。」ということを知り、強い衝撃と共に「自分の一生の仕事にしたい!」と思えるものに出会うことができました。あと、この運動の中で出会った先輩たちは、もの凄いパワーを持っている人がたくさんいて、「世の中には凄い人が居るもんやねんなぁ。」と感心することもよくありましたが、こんな風に世の中には凄い人が居るということが実感できたのも、いろんなところへ出掛けるようになって自分の世界が広がっていき、人間関係も広がっていったからだと思います。
 18年前のリハビリの先生の、軽く当たり前のように言ってくれた一言は、勇気と自信を失っていた僕の背中を「できるよ! 」と軽く叩いて僕の勇気と自信を取り戻してくれた初めの言葉となりました。その後、多くの仲間と出会い何度も「だいじょうぶ。」「できるよ。」「一緒にやろうよ。」と支えられてきたからこそ、今の自分があると思います。このように、多くの仲間との出会いや、いくつもの経験を重ねていく中で、楽しいこともたくさん知ったことと、社会の中での自分の役割というものも見つけることができたことで、「障害者も案外、いいやん。」「頸損って何かとやっかいなことも多いけど、それも含めて自分やから。」と思えるようになっていったのだと思う。
 以上が僕にとっての「障害受容」のプロセスですが、19歳で事故して20歳代のほとんどを「障害受容」のできない苦しみの中で過ごしてしまったので、もう少し早くに仲間や自立生活運動と出会っていたら楽しい20歳代を過ごせたのに。と、もったいなかったなぁと感じています。
 障害受容ができにくい理由は人それぞれなので、「これがあれば障害受容ができる。」なんてものはないと思いますが、1日でも早く、その苦しみから解放される日が来ることを切に願っています。
 「そのためには、まだまだやるべきことはたくさんあるなぁ・・・。」


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